KUDAN Project

美藝公

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KUDAN Project『美藝公』

原作:筒井康隆
脚本・演出:天野天街
出演:小熊ヒデジ&寺十吾

『美藝公』は、筒井康隆氏の同名小説を原作とした二人芝居です。同作品は2007年、東京・名古屋で初演し、大きな反響を呼びました。
……人生は活動写真…映画産業はわが国最大の産業であり、その頂点に立つスーパアスタア≪美藝公≫。彼の一挙手一投足は全国民の注目の的。あらゆる政府の政策はすべて“映画”と歩調を合わせて進行する……。
筒井氏の原作小説は、華やかな映画界のスタア達の赤裸々な姿を描きながら、奇跡のような至福の時と辛辣な現実批判を炙り出す異色長編活動大写真小説です。

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◎二人芝居『美藝公』あらすじ◎

物語の舞台となるのは、経済中心の消費社会ではなく、映画産業立国として復興していく戦後の日本。“美藝公”とは、その映画界の頂点に立つ者に与えられる称号である。美藝公の一挙手一投足は全国民の注目の的であり、政治・経済・社会・文化における政府の政策は、すべて映画と歩調をあわせて進められる。

ある時、美藝公は、炭鉱を舞台とした新作映画撮影中に大事故を起こしてしまい、彼の幼馴染で脚本家の矢島太郎と共に映画界を追放されることになる。映画界を追われ、演劇界に身をやつした二人は、映画界に復帰すべく、様々な試みを行う。
そんなある時、執筆に苦しむ矢島が「もし日本が映画立国ではなく、経済立国だったら」と空想する。そこで思い描かれる世界は悪夢的であり、“現実”の日本の光景と一致してしまう。

物語が進むにつれ、次第に炙り出されてくるのは、二人の過去と、“演劇”の本質だった。光と闇の絶え間ない連続の中でしか存在する術を知らない美藝公と矢島太郎。一筋の光と共に、彼らはいつしか世界の中に溶けてゆく。

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KUDAN Project『美藝公』は、『くだんの件』(1996年初演)、『真夜中の弥次さん喜多さん』(2002年初演)に続く、KUDAN Project二人芝居三部作・第三章です。脚本・演出を担当した天野天街は『美藝公』を上演するに当たり、“映画”と“演劇” を徹底的に解体・比較し、その構成要素をコラージュ・変換・再構築していく手法を用いました。驚くべきレベルでの映像と演劇のコラボレーションは、映像作家としても国際的評価を得ている天野ならではのものです。


★1981年、筒井康隆氏と横尾忠則氏のコラボレーションにより出版された『美藝公』



●舞台版『美藝公』に寄せて


今回の舞台作品は、日本のSF文学界を代表する作家・筒井康隆が1980年に発表した小『美藝公』が原作となっている。それは「もし日本の産業の中心が映画だったら」という奇想によって「もうひとつの日本」が描かれる、一種のパラレルワールドSFである。

その世界では政治も社会もすべて映画本位で動き、その頂点に君臨する人物が究極の映画スタア=美藝公なのだ。そこでは「もし日本が利潤ばかりを追求する経済立国だったら」なんて考えるだにおぞましいこととされる。

この小説の中で、映画監督の綱井が脚本家の里井に向かって次のように語る。

「映画にはとてもできないような小説と取り組んで名作を作るのが演出家の理想なんだよ」

この一節が、演劇の脚本家にして演出家でもある天野天街の創作魂に火をつけたのではないだろうか。“演劇魔術師”と呼ばれる天野にとっては「演劇にはとてもできないような小説と取り組むこと」こそ自らに課せられた使命だと考えたはずだ。しかも、そのように彼を焚きつけた眼前の小説それ自体が、取り組むべき相手であることに気付いた。なぜならそれは映画に向かって書かれた小説であり、演劇には全く向かっていないからだ。

さらに、である。壮大にして絢爛豪華な内容に対して、そこから最も遠い二人芝居という表現形式を以て挑もうと天野は企んだ。不可能性の極致的地点に自らを追い込んで退路を断ってみせたのだ。これはもう“自虐的”を通り越して“自殺的”といってよい。

そして、その舞台としたのが「炭坑」だった。原作では「炭坑」という映画が作られ、人々に大いなる感動を与えるのだが…。

「炭坑」の暗闇は洞窟にようでもあり、まるで人の無意識のように、夢を投影させる幽玄神秘の場だ。人類史において絵画が誕生したのも洞窟だった。また闇と光の絶え間なき連続運動から映画は発明された。こうしたイメージを取り込みながら、天野は原作の『美藝公』を換骨奪胎し、人類の夢が映画の始源と重なり合う様を遊戯的に描き出した。

と同時に、我らが演劇を落ちこぼれたジャンルとして自虐的に扱うのだが、それは必ずしも卑屈な笑いをとるための手段ではない。陳腐化された表現を使わせて貰うならば、どんなに貧しくてもどんなに不自由でもどんなにロウテクでも人は(現代人であろうと原人であろうと)等しく夢を見ることができる。であればこそ演劇は、むしろその不自由性・不可能性をバネにして「映画の夢」さえも描けてしまう野生的な強さを秘めたメディアなのだ! …と、このように、天野は、演劇の豊潤さ・自由さを逆説的に訴えているのではないだろうか。

しかし、こうして天野の手掛ける二人芝居は、今回もまた「夢」という、相変わらずの、いや、究極の主題に収斂してゆく。それゆえにか、この作品の二人の登場人物は、原作小説通りの穂高小四郎&里井勝夫という役名だけでなく、北山等&矢島太郎という別の名も併せ持つ。北山=キタさん&矢島=ヤジさんは『真夜中の弥次さん喜多さん』の二人であり、等=ヒトシ&太郎=タロウは『くだんの件』の二人にほかならない。これらすべて、KUDAN Projectの小熊ヒデジ&寺十吾という(まるで闇と光のように明滅する)誠に得難い肉体メディアを通して、溶け合い繋がった、人類の夢の記憶/記録であることを私達は改めて思い知らされるのであった。

(うにたもみいち/演劇エッセイスト)

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