KUDAN Project

真夜中の弥次さん喜多さん
review

詩学shigaku 2004/03 Number643 より

◇詩人は眠らない・三上その子の「し」的舞台評F
「キタさん・・・」「なんだよ」「カッコイイ」

KUDANProject『真夜中の弥次さん喜多さん』 三上その子

ネタバレあります。観劇後にお読み下さい。

今、詩はカッコイイだろうか。そして詩人は?などと聞かないのが一番カッコイイ。聞いても颯爽としたイメージはなさそうである。だが、己の感性を紙に書きつけ、人にも読ませようという辺り、少なくとも生命力だけは強いと見える。表現者は、皆そんなものではないだろうか。

「カッコヨサ」とは、生命力を隅々まで使い切る時に生まれるアウラである。その意味で本当にカッコイイ作品には、なかなかお目にかかれない。生命力を節約した軽くてお洒落な舞台やイベント。「こんな時代に最大値で生きずにどうする」と鼻息を荒くして、ひとり会場を後にすることが多い。さみしい。私の見たいものがない・・・。ライブは「風に書く文字」だ。二度とは読めない。それだけ無念に思う。

最近、風に書く文字、演劇のカッコヨサを久々に味わった。題名もイナセ?な「真夜中の弥次さん喜多さん」。漫画家・しりあがり寿(以下人名は敬称略)が、その続編で手塚治虫文化大賞を受賞している同名の漫画作品と、同じ作者の同名小説を原作に、名古屋を拠点とする劇団「少年王者舘」の作・演出家、天野天街が繰り広げた、二人芝居である。2002年の初演以来、日本や中国で再演を重ねてきた。演ずるのは小熊ヒデジと寺十吾。98年の天野による作・演出の舞台「くだんの件」上演の際に組まれた「KUDAN Project」の俳優である。

冒頭、宿の布団で共寝している弥次と喜多。起き上がり「雨だあ」と障子窓を開けると「ザーザー」という雨音を表す文字がスクリーン一杯に降っている。喜多がひょいと手を伸ばすと、ぺらぺらの文字が釣れる。「なんか・・リアルじゃねえやな」。いきなり演劇の虚実へと迫るセリフはギャグであって既にギャグではない。「やる気だな」と思わずわくわくする。

「東海道中膝栗毛」+「真夜中のカウボーイ」という設定は、原作のまま。金髪でドラッグ中毒の喜多さんが、恋人の弥次さんと、立ち直るため「ぺらぺらの」江戸を離れて「リアル」な伊勢を目指す。喜多の妄想に弥次も取り込まれての荒唐無稽な道行きは、いつしか生と死の深遠までさかのぼる。天野は原作の中のエピソードを縦横無尽に配置して、長雨に降り込められた宿屋を舞台に、二人の男が「リアル」を求めて繰り広げる(ある意味)壮大な道中記を編み上げた。

男たちは、夢と現実、生と死、自と他を行きつ戻りつする。魔法のような作劇術。いま、ここ、を切り取りよそへとつなげる卓越した構成力は、かつて天野が監督した映像作品「トワイライツ」が独のオーバーハウゼン、メルボルンの両国際映画祭にてグランプリを受賞していることからも分かる。劇作家としても「くだんの件」で岸田戯曲賞最終選考候補となった。

現代の弥次喜多に、天野はほぼすべて、大和言葉(訓読み)のセリフを与えている。身の丈のリアルを探すにふさわしい、日本人の感性に響く分かりやすい言葉を。はてしなく広がる想像力と、心身のサイズに沿った言葉。この両輪が世界と人の正体をめぐる、骨太なテーマを支えている。ファンタジックな構成力で知られる演出家だが、正統派とも言える優れた日本語=言霊の使い手でもあることは、詩人として、重ねて注目すべきだろう。

演出で印象的なのはループ(一連のシーンの繰り返し)である。踏むと時間が元通りになる「ふりだしの畳」の場面はなんと十回も続く。二人はわざと死んでは生き返り、幻とリアルのメタファーなのか(?)消しゴムや鉛筆に転生する。いくつかの小さなループは大きなループに巧妙にたたみこまれる。言葉遊びも、幾層にも批評性を帯びている。「いみもなくなつがくる」喜多が言ったとたん、無数の「mean」の字が映し出され、二人はミンミン蝉の声に包まれる。「タビ」と書いた紙は、後ろの障子に貼られ、その形は「死」の匂いを漂わせて、見えない共演者のようにずっと役者と共にある。劇中、ついに字は勝手に棒を増やし、本物の「死」に変わる。

娯楽としても、手を抜かない。花火や機関車、走馬灯の目くるめく映像。舞台から天井伝いに役者が客席へ飛び出してゆく仕掛けや、なぜか動く障子の穴。消えたと思ったら寝床から出てくる。いきなりマイクが下がってきて歌いだす。早口のギャグ、機敏な動き。小劇場が達成してきた芸の玉手箱の果てに、それでも伊勢につけない二人にポツリと現れる疑問。「なんか見失ってねえか?」

まるで演劇そのものへの問い。「本当のリアルはよう・・・わかんね・・・」「いっしょにいようよなあ」お互いを求める二人の腕は本物のうどんのようにつながり、「自分」さえあるのか無いのか分からなくなる。照明と客電が落ちる。「・・・ねえのはこえーや」暗闇で、弥次はつぶやく。

演劇人として、属する世界を批評しながら、天野は哲学的な宇宙の深みへと突き進む。だが一方で、演劇の、また人の、必死の営みを、愛をこめて見つめている。二人の役者は、その思いを体一つで受けて立つ。技術と志。生命力を惜しまないそのさまに、見るものの胸は思わず熱くなってくる。放り込まれた無数の演技・演劇スタイルが「何のために」演劇にそれが必要だったのか、自らを語り始める。何一つ無駄はなかった、と。私には、この芝居が舞台芸術全体へのオマージュに思われた。同時に、あらゆる詩=死=始への。そして全ての表現者が辿りつくのは、やっぱり「よくわからない」場所なのだ。そう、私たちはあらゆることを何も知らない。

終盤、映像のタイトルロールが流れ、早くもセットが片付けられる。「おわったら、またすぐにはじまんのよ」。旅装束の喜多さんが呟く。「オイラたちゃただ、あっちからきて、こっちにいくだけさ」。タンゴだ! の言葉で漫画は終わる。天野の見つけた、旅の終わりとは?

弥次も喜多もついに宿から一歩も出ない。しかしこの作品は、途方もない旅物語なのである。二人の役者は、観客まで不可思議なお伊勢詣りに引きずり込んだ。役者は旅に出て旅をせず、観客は見に来たのに見に行き、芝居は終わったのに始まっている。無限のループ。その中を、人は誰でもあっちからこっちへと、命を尽くして生きてゆく。カッコいいことではないか。

photo:YAMAZAKI Noriaki

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